南北朝の内乱で北朝側に属した相馬重胤公は建武3年 (1336年)、片瀬川の戦いで敗れ、 同年4月、鎌倉法華堂で自害しました。 出陣するさい重胤公は、母からゆずりうけた小さな観音像を御守としていつも兜の中に大事に納めていたと言われています。 重胤公の家来は、激しい戦いの中、この観音像だけを奥州相馬家へと持ち帰りました。
永禄元年 (1558年)正月、重胤公の子孫にあたる相馬慶胤 (嗣嶽慶胤禅師)が、重胤公とその家来たちの供養と慰霊のために、 奥州相馬家より重胤公の兜の中に納められていた小さな観音像を増尾に請来し、増尾山少林寺が開山されました。
しかし嗣嶽慶胤和尚は開山を名乗らず、馬橋万満寺2世雪傅宗屋和尚を少林寺開山に迎え、自らは少林寺第2世として名を残しています。 雪傅宗屋和尚はその後、茨城県土浦市法雲寺の第22世となります。
少林寺では以上のような経緯法縁から
開基 相馬重胤公
開山 雪傅屋和尚
としています。
現在まで、重胤公ゆかりの観音像をご本尊に、また境内墓地に重胤公の供養塔もこざいます。
重胤公ゆかりの観音像<本尊> | 重胤公の供養塔<境内墓地> |
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